第2章 白いブリーフ -7-

 渋谷の東西百貨店に岡村刑事と新米の野間はいた。
 野間がしきりにメモを取っている。
「そのBVRの白いブリーフ、Mサイズは月にどれくらい売れるんですか」
「まあ、一枚2500円もしますから、そうそう数は出ませんけど」
 店員用の控室で、女子店員は落ち着きなく答えた。「いったいなんの調査なんですか」
「失礼しました。この老婦人はお客さんにいますよね」
 岡村は港頼子の写真を店員に見せた。
「ああ、この方はお得意さんです。2か月に1度ぐらいお見えになって、肌着と一緒に買っていかれますけど」
 岡村と野間は眼でうなずいた。
 

 マスコミや警察が血眼になって、真一の行方を捜しているころ、岡村たちは白ブリーフについて、丹念に調べまわっていた。真一のブリーフは、ここ渋谷の東西百貨店で、母の頼子により買われていた。
 最初に犠牲者・飯田浩二のはいていたブリーフは鑑識の結果、間違いなく真一が着用しているものだった。しかし、2枚目以降、竹芝ふ頭のマッチョ水死、3人目の鈴木由紀子のブリーフからは、真一の痕跡はなかった。
おやっさん、誰がハンカチをはめているんでしょうね」と昨日、新宿のしょんべん横町で、ホッピーを飲みながら、野間は岡村に問いかけた。
「わからん。まったく、謎だ。ただ…」岡村はレバカツを口にほうりながら言った。「白ブリーフについては、もう少し調べておきたいな」
「白ブリーフ遺体すり替え殺人」特別捜査本部は、竹芝の中年男殺人、松本市鈴木由美子殺人が加わり、「白ブリーフ連続殺人事件」特別捜査本部と改名され、新宿北署、湾岸南署、長野県警の合同捜査となった。捜査本部は新宿北署にあったが、やはり縄張り意識の強い集団の寄せ集めであるなどの理由で捜査は混迷を極めていた。
 BVRの白ブリーフは外国ブランドで、国内のよくある白パンツとは一線を画す。BVRを好むのは、ファッションに興味のある若い富裕者層と、一部の同性愛者、SM嗜好の人物に限られているという。真一の場合、目の肥えた母がデパートで見つけ、それからリピーターになったと考えられる。おそらく真一自身も気に入っていたのだろう。
「しかし、これ、おしっこしなくいなあ」と野間がぼやくのは、デザインを重視しているあまり、いわゆる「社会の窓」と呼ばれる放尿口が狭いということ。
「ああ、それはデザインですから。みなさん、ずり下げて用を足されているようですよ」と若い女店員は、調子に乗って答えた。
「これは全国で販売されているのですか」や岡村が尋ねる。
「ええ、うちの百貨店では確か…ただ、大都市中心ですよ。このテのパンツは」
「東京都内では?」
「ええ、全店舗でご用意させていただいていると思いますが」
「最近、大量買いは?」
「さあ、そこまでは…」
「どの店舗でいちばん売れるのですか」
「いやあ、そういうことは、会社のほうを通していただかないと…」
 そろそろ潮時だった。調子づいていた女店員もいらだちを見せ始めている。
「ありがとうございます。参考になりました」
「はっ、どうも。でも、最近は、現物そっくりのレプリカも闇で売られていて、私たちも困っているんですけどね」
 ぼそっと、女店員が言った言葉に岡村が食いついた。
「レプリカ…どこ製ですか」
「えっ。たぶん中国製とかじゃないですか」
「どこで、手に入ります」
「さあ…でも、変わった趣味の方が多いので、たぶん歓楽街とか…たしか、歌舞伎町にそういう店があるとかないとか」
 岡村は会釈をして、その場を立ち去った。野間が後を追う。
おやっさん!」
「そうだ。もし、後の2枚が新宿のレプリカだとしたら。一連の事件の首謀者は、新宿近辺にいる可能性が高い。もうほかの連中にはとやかく言わせない。おれたちのシマの問題はおれたちで解決する」
 岡村は階段を駆け降りた。
おやっさん、どこへ?」
「まずは、松屋で腹ごしらえだ」
 野間は追ったが、岡村が階段を駆け降りるスピードは尋常ではなかった。

第2章 白いブリーフ -6-

「スコッチ先生、ゆ、由起子先輩がっ、あああ」
 真一は狼狽していた。
「おい、真一、落ち着け。まず、死体には触るな。毛布とかもかけるな。そして、一度、部屋を出ろ。まず、ワイパックスヒルナミンを飲むんだ。さあ、いますぐやりなさい」
 真一はリビングに向かい、ポケットから常用薬を取り出し、水とともに薬を飲み下した。
「はあはあ、先生。飲みました」
 パニックになると、真一は携帯電話でスコッチの指示を受けることになっている。
「いいか、今度の事件は、前回のとは違うぞ。おまえは当事者で、第1発見者だ。警察への通報はしない方がいいだろう。落ち着いて来たか」
「ええ。でも、大好きな由起子先輩がこんなことになってしまい」
 真一は泣いていた。
「犯人の目星は」
「あるわけないですよ〜」
「由起子は夕べ何か言っていたか」
「そういえば。今朝、事件に絡んだことで何かおもしろいものを見せてくれるとか」
「どの事件だ?」
「さあ、わかりません」
「いいか、デジカメをもっているだろ?」
 東京のスコッチはきわめて冷静だ。頭のきれる男である。
 すっと、うしろから、キノコがデジカメを差し出した。いつのまに、起きて状況を知ったのだろう。
「まず、デジカメで室内を撮影しろ。そして、死体もよく撮ってくるんだ」
「でもお・・・」
「真一っ!」スコッチは声を荒げた。「おまえが刑務所に入るかどうかの瀬戸際だぞ。刑務所の便所には、おまえは、耐えられないぞ」
「はいっ。すみません」
 真一は震える手で室内の写真を撮り始めた。不思議な部屋だった。赤いカーテンにベッド以外は何もない。シンプルな部屋。
「由起子先輩、すいません」と言って、クローゼットを開いた。そこにはなつかしい夏服がたくさん並んでいた。それらは真一と過ごした婦人家庭部時代に身につけていたスプリングコートやワンピースなどがつるされていた。ふと、真一は衣装の列の端に不思議な服を見つけた。白衣と少女のようなロリっぽい服。先生・・・コスプレ!? 真一は首を傾げた。
 そして最後に、由起子の写真を撮りおさめた。死体とはいえ、ピンクに染め上げられた由美子の死体はエロティックであった。
 ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、由起子先輩の死体を陵辱している。自分の下半身に熱をのびている自分に心底、驚きと屈辱と自己嫌悪を感じた。


「先生、撮り終えました」
「んー。ご苦労」
 スコッチは恵比寿のマンションで、葉巻をくゆらせている様子だった。
「じゃあ、そこから速やかに立ち去りなさい」
「警察には連絡は」真一はこだわった。
「だめだ。するな。今はむしろ、君の命が危ない。早く、こっちへ戻って来なさい。だけど、中央高速は使ってはだめだ。軽井沢か名古屋に出て、高速を使わずに深夜に戻って来なさい。
 真一とキノコは証拠となるワインの瓶やゴミなどを回収してバックにつめた。室内のあらゆる指紋も拭き去った。そんなことで、真一がここに来たことを隠せるかどうかはなからないが、できるだけの処理はしたと思う。
 最後に真一は由起子に別れの挨拶をして、夜中に部屋を出た。
 立川市にある新しい潜伏場所に着いたのは明け方だった。スコッチが用意してくれた部屋だ。国道から一般は入った一戸建てだ。しばらく真一はここから深夜しかでられないだろう。
 キノコが大きな寝室を、真一が6畳間を使うことにした。6畳まで荷物の整理をしていた真一に、大人しいキノコがいかつい声で、呼びかけた。「真一さんよお」。
 キノコは部屋の入り口から、手招きをした。呼ばれるままにリビングに行くと、だだっ広いフローリングの真ん中に、新聞紙が敷かれ、缶コーヒーとチーズケーキが2人分用意されていた。コンビニで買って来たのだろう。
「お口には、あわねえと思いますが」
「キノコさんっ」
 真一はむさぼるようにチーズケーキをかじった。国内の有名店のチーズケーキを食べ尽くしている真一だったが、このケーキがいままで食べたチーズケーキの中で、なによりもいちばんうまいと、泣きながらむさぼり続けた。

第2章 白いブリーフ -5-

 真一は毎朝6時30分に起きる。これは小学校時代からの習慣である。
 朝起きて、顔を洗って食卓に行くと、そこにはいつも母と妹の奈緒が笑顔で待っていた。ミルクとオレンジジュース、そして焼きたてのパンケーキ。それに、メープルシロップをたっぷりかけていただく。それは真一の至福の時間だった。記者の仕事をはじめて、深夜勤務が多くなり、真一は母たちの家を離れ、近所にマンションを借りた。しかし、けっきょく、朝食だけは、実家に戻り母たちとともにした。
 この日、真一は6時30分21秒で起き上がった。
 前の晩、松本市郊外にある由紀子のマンションで、3人は大いに飲んだ。
 少々、二日酔いである。ああ、頭が濁っている。と真一は思った。
 キノコは隣の部屋で寝ているはずだった。一人暮らしなのに、由紀子は4LDKのマンションに住んでいた。
 とりあえず、顔を洗いたかった。由紀子の家の構造がどうなっているかわからなかったが、とりあえず、キッチンまでいけば、水が使えると思った。
 室内はしんとしていた。キノコも由紀子もまだ寝ているようである。
 僕が一等賞だ、くすくすっと笑いながら、真一はキッチンに向かった。
 ところがキッチンがどこなのかわからない。昨夜は3人でワインを3本あけている。
 真一は廊下の奥にあるドアを開けてみた。
 そこは赤いカーテンが窓を覆っていた。女の部屋を直感的に感じ取る真一は、そこが由紀子の部屋であることはすぐにわかった。
「あっ、ごめんなさい」と言って、ドアを閉じようとしたその瞬間、ベッドに横たわる女の裸体が目に飛び込んできた。
 うわっ、女の裸体を久しく見ていない(というか、ほとんど見たことのない)真一は思わず凝視してしまった。
 由紀子の裸体を見たいという欲望がかすかにあったのかもしれない。
姉のように、母のように慕っていた女の乳房が、そしてこんもりした陰毛がそこにあった。
赤いカーテンからの光が、由紀子の肢体をピンク色に染めていた。
真一はわなわなと震えた。そして次の瞬間、体が凍りついた。
それは白目をむいた由紀子の死体だった。首に赤いリボンが巻かれていた。
 そして手には、白いブリーフが握られていた。

第2章 白いブリーフ -4-

「1枚、2枚、3枚・・・ああ、7枚」
 港真一は馬刺の切れ端を数えて絶句した。
「これじゃあ、由起子先輩とキノコさんと僕の3人では馬刺の数が割り切りれないよ〜」
 真一は頭を抱えた。
 松本市とある料理店。
「もともと松本は馬刺で有名なんです。おいしい店はいっぱいあるけど、最近は、輸入肉を使う店もけっこうあるとか聞きました。でも、ここの肉はおいしいですよ。おいしければ、国産でも輸入でもかまわないというのが僕の持論です」
 由起子はくすくす笑いながら、真一の主張を聞いた。
「ホワイティ、かわらないわね。こんな事件のさなかでも」由美子は昔の恋人でもながめるように真一を見つめた。
「で」少し真顔になって、由起子は真一に尋ねた。「なんで、私を尋ねて来たの?」
「へっ!?」真一は驚いた。「理由なんかないですよ」。
「危険を冒してまで?」
「危険に値する、人、ですから」
「まっ。あいかわらず、かわいいのね」
 由起子が顔を赤らめた。そんな由起子をながめながら、キノコは揚げ出し豆腐をもくもくと食べている。
「そんなあ。照れますよお」
「ところで」由起子は話題を変えた。「キノコさんは恋人?」
 げほっ、と真一はむせた。
「彼女はスコッチ先生の患者で、僕のアシスタントです。というよりは、僕のパートナーですよ」
「ほら、やっぱりパートナーさんをつれてくるぐらいだから、何か理由があるわけでしょ」と由起子は探るような目つきをした。「私はもう第一線から外れているの。何も新しい情報はないわ。といっても、もともと本社でも単なる料理記者だったんだから、話すことは特別にはないわ」
「ああ、先輩、変な勘ぐりをしないでくださいよ・・・でも」
「でも?」
「においがしたんです」
「におい?」
「あはは。ええ。おいしいオニオングラタンスープのにおい、みたいな。食べたいものをイメージすると、その手のにおいが頭の中をかけめぐるんですね。インスピレーション、というか」
 この子ったら・・・由美子は息をのんだ。
「びっくり。私を食べたいの?」由美子ははぐらかした。
「いえ! そんなとんでもない!」今度は真一は顔を赤らめた。「ただ、会いたかっただけでよ。ていうか、会うべき人という気がして。キノコさんも賛成してくれたんです。キノコさんは巫女さんですよ。迷ったら、キノコさんに聞くべきですよ。ね、キノコさん」
 寡黙なキノコは、あん肝にぱくつきながら、深くうなずいた。
「じゃあ。今夜2人を私の家に招待するわ。明日の朝、おもしろいものを見せてあげる。特別に」
 由起子は、本社時代によく見せたきりっとした表情で言った。
「わー、わー、なんだろう。フランスのダイニングのスタイルブックの新刊でしょ。僕がほしがっていた」
「あは、ほんとうにあいかわらずさん、ね」
 と優しく言って、1枚ばくっと馬刺を食べた。
「これで残り3枚。1人一枚で、割り切れるわね」

第2章 白いブリーフ -3-

 毎朝新聞社役員室。河野編集担当副社長、南原編集総局長、野沢社会部部長の3人が沈黙していた。
 河野はじっと階下の車の流れを見つめている。ソファーでは南原が腕組みをしており、野沢は入り口近くに立ちすくみ、2人が口を開くのを待っている。
「で」河野は南原と野沢に背を向けたまま言った。「港真一はいま、どこにいるんだ」
「はっ、それが私にも…」野沢は額に汗を浮かべている「現在、調査中ですが」
「警察の動きはどうなんだ」南原が後を追って野沢を責める。
「はっ、新宿北警察署が慌ただしくなってきています」野沢の手帳を持つ手がかすかに震えている。
 再び沈黙。
「君は社会部部長になって、何年になるんだっけ?」河野は言った。
「はっ、今年で1年になります」野沢が答える。
「ああ、そうね。例の事件の後だったね」河野がタバコに火をつけた。
「はっ…」野沢はもう答えようがなかった。
「君を経済部から社会部にコンバートした理由はなんだったかな。君はあの時、悔し涙を流しながら、私に誓ったはずだけど。もう一度、チャンスをください、と。」南原は容赦がなかった。
「南原君、まあ」と河野が制した。「君と野沢君は一蓮托生名ことを忘れずに」
「はっ…」今度は南原が沈黙する番だった。
「いいかね」河野は続けた。「君たちは自分の仕事をちゃんとしなさい。これは君たちの首を地方に飛ばすぐらいじゃ済まない問題なんだからね」
「それは重々、承知しております」南原が低い声で言った。
「私がこの社のトップになるか…」河野は相変わらず顔を見せない。「あるいは私たちが命を落とすか、だ」。
 深い沈黙が場を包んだ。時計が針を刻む音だけが、室内に響く。
 そして、河野は初めて2人に顔を向けた。「鈴木由紀子を監視しなさい」。
「鈴木…」2人は同時に声を上げた。
「鈴木君は確か…松本支局に飛ばしたはずですが…」そう言って、南原は「うっ」とうめいた。「副社長、それは!」
「十分に、可能性は、ある。鈴木が例の情報をつかんでいて、港真一が彼女と接触したら…」
 はあああっ、南原は思わず立ち上がった。「野沢君、すぐに長野に行きたまえ」
「はあっ」野沢は慌てふためていて、役員室を飛び出していった。
「我々も、楽観視、し過ぎていたな」河野はソファーに身を沈めながら言った。
「申し訳ございません」南原は深々と頭を下げた。
「全力を尽くしなさい、南原君。君ももっと汗を流さんと」
「承知いたしました。私は、社と、河野副社長に人生をゆだねた男です。私はこれからも…」
 河野が手で南原をさえぎった。
「言葉はいらないよ、南原君。結果を見せてくれ」
 そう言うと、河野は秘書に電話を入れた。「南原君がお帰りだ。次の来客を通してくれ」。

第2章 白いブリーフ -2-

 午前5時。竹橋埠頭。朝もやが立ち込めている。
 かすんだ空気の中に、赤いライトが点滅している。
 ジョギング姿の若い女が青ざめた顔で、刑事の質問を受けている。
 その水死体のおかむら刑事が見ても死後2日は経過していた。
 ジョギングしていた女は水際に渦のようにさざ波が立っているのを見て足を止めた。
 よく見ると穴子の群れだった。穴子はその死体を争うようにむさぼっていた。
 女はその場にへたり込み、携帯電話から110番通報してきた。
 穴子に全身をかじられたボロボロの遺体は、がっしりした中年男のものだった。全身に無数の裂傷があった。
「あー、こりゃ、放置プレーですかね」
 ほかの刑事が、口をへの字に歪ませながら言った。
 あながち、それも外れてはいないかもしれんな、と老練な刑事は心の中でつぶやいた。その遺体が身につけていたものは、靴下と白いブリーフのみだった。

 その情報はすぐに新宿北警察署の岡村刑事のもとにも届いた。
おやっさん、これって、もしかして…」
 新米刑事の野間は力んだ。
 岡村は野間の肩をポンポンと叩いて、自分の飲みかけのマグカップを手渡した。
「いいか、この事件は管轄外だ。だが、恐らくホシは一緒だ。おい、すぐにハンカチをもう一度、参考人として、呼ぶ手配をしろ。いいか、マスコミには気づかれるな。やつらはいま、ネタがほしくて血眼になっている」
「それが、おやっさん…今朝からハンカチがマンションから消えました」
 野間はくちびるをかみしめて言った。「すんません。おれが張り付いていながら…」
「そうか。いずれにしても、今回の事件は、あのハンカチがカギを握っている。さっそく警部に報告しよう」

「白ブリーフ殺人事件」特別捜査本部の特設電話には、朝からたくさんのタレこみ情報が寄せられ、5人の刑事が対応に追われていた。ほとんどがガセ情報であるが、今はそれも貴重な情報源である。ほとんどが、ハンカチに関するリーク、冷やかし情報だった。
おやっさん、中央高速の八王子インターチェンジで、ハンカチらしき男の乗車する軽トラを見たという情報が来ていますが。運転していたのはガタイのいい20代の女のようですが」
「八王子?」岡村は眉をひそめた。岡村の脳裏に何かがよぎって消えていった。「山梨・長野方面にハンカチが向う理由はあるか」
 野間は肩をすくめて見せた。「すんません。わからんです。しかし、高跳び、とか」
「いや」岡村は遮った。「高跳びなら、何も中央高速を突破する理由もあるまい」
 岡村はバッグをつかみ、席を立ちあがった。「おい、行くぞ」
おやっさん、どこへ?」野間は慌てて、後を追った。
吉野家だ」ニッと岡村は笑った。「まずは腹ごしらえだ」。

第2章 白いブリーフ -1-

 ボウモアオン・ザ・ロックの芳香が漂う。
 それを覆いつくすように、シガーの煙が室内を支配する。
「うーん、葉巻はやっぱりキューバ産に限りますなあ。最近、いろいろ出てるけど、やっぱり最後はコイーバに落ち着く」
 甲高い声で、男がソファーに身を沈めている。
 ドクトル・スコッチと患者は彼を呼ぶ。精神科医・植村淳一。40歳。独身。
 恵比寿の5LDKのマンションに一人で住み、麻布十番の自分のクリニックにジャガーで通う。スコッチのマニアとして、雑誌・新聞への寄稿も多い。クリニックは会員制で、セレブしか相手にしない。一サラリーマンの真一みたいな若造が、スコッチに相手にしてもらえるのは、真一の「舌」の才能をスコッチが信用しているからだ。
 スコッチも美食家であり、新しい店を発掘するのが大好きだ。いい店を見つけると、すかさず真一を呼び出す。真一に食べさせて、「美味です」と言わせたい。その言葉を聞くと、スコッチはとたんに得意げになり、シャンパンを開ける。
 料亭化学調味料事件の時、主治医であるスコッチは真一にこんなことを言った。
「あれは、真一が正しいから、特別な薬も診断書も出さないよ」


 今日もスコッチは上機嫌。一方、真一は青ざめた顔をしていた。
「しかし、よく真一はあの戒厳令を突破してきたな。けっけっ」
 いたずら顔でスコッチは言う。
「妹のスーツケースの中に入って、抜け出したんですよ」
 真一は薄く割ったボウモアをもらってなめている。
「でも、あなた、閉所はだめじゃなかった?」
奈緒に開けてもらったときは、気絶していました。ウォークマンを聞いていたのがよかったかも、です」
「何を聞いていたの」
志ん生、です」
「あら、そんな趣味、あったっけ」
「非常事態ですから」
 あっはっは、とスコッチは太い腹を揺らして笑った。ベストのボタンがはじけそうである。


「とにかく」真一は言った。「ぼくはあの事件以来の屈辱を感じています。悔しくって悔しくって、今日はもう20回は手を洗っていますし、靴下は3回取り換えました」
 黒装束なのに、真一の靴下は白かった。
「ぼくは、どうしてこんなに、世界から屈辱を受けるんですか。僕が精神病だからですか。妄想があるからですか。幻覚があるからですか。そりゃ、確かに、私の隣席の同僚はロシアのスパイではありませんでしたよ。でも、あの店は化学調味料を入れていたし、少女たちの死体はあった。それに、僕は下着交換の趣味は、ない」
「あー、わかっとる、わかっとる。そう熱くならずに、このレキソタンを飲みなさい。落ち着くよ」
 真一はスコッチに進められた軽い精神安定剤を飲んだ。
「この事件は、いろいろなことが絡み合っている。あなたが、この事件を解決して、自分の汚名を晴らしたいなら、ここは冷静に事を進めよう。私もとことん付き合うよ」
「ありがとうございます」
 少し落ち着いた真一はテーブルの上の燻製をかじった。「これは?」
 ふっふっふ、ようやく気づいたか、とばかりスコッチはほほ笑んだ。
「患者の土産のウツボの燻製。意外にくせがないだろ」
「美味、です」
「うはははは。よしよし。まず今日は飲もう。どうせ泊まる場所ないんだろう。しばらくここを使え。よし、飲むぞ。おーい、カラスミを持ってきてくれ」
「はい」
 奥で女の声がした。
「あっ、先生、彼女が来ているんですか」
「いや、患者だよ。九州のほうの離れ小島で巫女をやっていたらしい。両親が国会議員を通じて、よこしてきた。ま、住み込み、患者、だな」
「はじめまして」
 真一が振り返ると、色白で大顔の娘が小皿を持って立っていた。
 白いワンピースをはじき返す少々固太りの腕が頼もしさを感じさせる。
 ぽてっとしたピンクのくちびるに真一はうろたえた。「あ、どうも、です」。
「内浦裕美くんだよ。髪を切ったばかりなんだ。六本木で切せれた。服も全部、私が買ってやった。おもしろい子だよ。髪型、マッシュルームみたいで、かわいいだろ。キノコと呼んでやってくれ。治療して、タダ飯食わせるのも癪だから、家政婦に、と思ったが、しばらく、真一の事件解決のサポートにあたってもらおう」
「なにからなにまで・・・」
 真一はスコッチのさりげない優しさに涙した。