第2章 白いブリーフ -1-

 ボウモアオン・ザ・ロックの芳香が漂う。
 それを覆いつくすように、シガーの煙が室内を支配する。
「うーん、葉巻はやっぱりキューバ産に限りますなあ。最近、いろいろ出てるけど、やっぱり最後はコイーバに落ち着く」
 甲高い声で、男がソファーに身を沈めている。
 ドクトル・スコッチと患者は彼を呼ぶ。精神科医・植村淳一。40歳。独身。
 恵比寿の5LDKのマンションに一人で住み、麻布十番の自分のクリニックにジャガーで通う。スコッチのマニアとして、雑誌・新聞への寄稿も多い。クリニックは会員制で、セレブしか相手にしない。一サラリーマンの真一みたいな若造が、スコッチに相手にしてもらえるのは、真一の「舌」の才能をスコッチが信用しているからだ。
 スコッチも美食家であり、新しい店を発掘するのが大好きだ。いい店を見つけると、すかさず真一を呼び出す。真一に食べさせて、「美味です」と言わせたい。その言葉を聞くと、スコッチはとたんに得意げになり、シャンパンを開ける。
 料亭化学調味料事件の時、主治医であるスコッチは真一にこんなことを言った。
「あれは、真一が正しいから、特別な薬も診断書も出さないよ」


 今日もスコッチは上機嫌。一方、真一は青ざめた顔をしていた。
「しかし、よく真一はあの戒厳令を突破してきたな。けっけっ」
 いたずら顔でスコッチは言う。
「妹のスーツケースの中に入って、抜け出したんですよ」
 真一は薄く割ったボウモアをもらってなめている。
「でも、あなた、閉所はだめじゃなかった?」
奈緒に開けてもらったときは、気絶していました。ウォークマンを聞いていたのがよかったかも、です」
「何を聞いていたの」
志ん生、です」
「あら、そんな趣味、あったっけ」
「非常事態ですから」
 あっはっは、とスコッチは太い腹を揺らして笑った。ベストのボタンがはじけそうである。


「とにかく」真一は言った。「ぼくはあの事件以来の屈辱を感じています。悔しくって悔しくって、今日はもう20回は手を洗っていますし、靴下は3回取り換えました」
 黒装束なのに、真一の靴下は白かった。
「ぼくは、どうしてこんなに、世界から屈辱を受けるんですか。僕が精神病だからですか。妄想があるからですか。幻覚があるからですか。そりゃ、確かに、私の隣席の同僚はロシアのスパイではありませんでしたよ。でも、あの店は化学調味料を入れていたし、少女たちの死体はあった。それに、僕は下着交換の趣味は、ない」
「あー、わかっとる、わかっとる。そう熱くならずに、このレキソタンを飲みなさい。落ち着くよ」
 真一はスコッチに進められた軽い精神安定剤を飲んだ。
「この事件は、いろいろなことが絡み合っている。あなたが、この事件を解決して、自分の汚名を晴らしたいなら、ここは冷静に事を進めよう。私もとことん付き合うよ」
「ありがとうございます」
 少し落ち着いた真一はテーブルの上の燻製をかじった。「これは?」
 ふっふっふ、ようやく気づいたか、とばかりスコッチはほほ笑んだ。
「患者の土産のウツボの燻製。意外にくせがないだろ」
「美味、です」
「うはははは。よしよし。まず今日は飲もう。どうせ泊まる場所ないんだろう。しばらくここを使え。よし、飲むぞ。おーい、カラスミを持ってきてくれ」
「はい」
 奥で女の声がした。
「あっ、先生、彼女が来ているんですか」
「いや、患者だよ。九州のほうの離れ小島で巫女をやっていたらしい。両親が国会議員を通じて、よこしてきた。ま、住み込み、患者、だな」
「はじめまして」
 真一が振り返ると、色白で大顔の娘が小皿を持って立っていた。
 白いワンピースをはじき返す少々固太りの腕が頼もしさを感じさせる。
 ぽてっとしたピンクのくちびるに真一はうろたえた。「あ、どうも、です」。
「内浦裕美くんだよ。髪を切ったばかりなんだ。六本木で切せれた。服も全部、私が買ってやった。おもしろい子だよ。髪型、マッシュルームみたいで、かわいいだろ。キノコと呼んでやってくれ。治療して、タダ飯食わせるのも癪だから、家政婦に、と思ったが、しばらく、真一の事件解決のサポートにあたってもらおう」
「なにからなにまで・・・」
 真一はスコッチのさりげない優しさに涙した。