第1章 13段の階段 -6-

 真一は事態を飲み込むのに、1週間を要した。
 社から下された1カ月の自宅待機はむしろ、真一にとっては救いとなった。
 あの一日で、すべてが変わってしまった・・・と真一は思う。
 カーテンはぴっちり閉ざされ、小さな室内灯がともっている。壁際に広がるフラットタイプの水槽には、真一の好きなグッピーエンゼルフィッシュがゆったりと泳いでいる。グッピーのひらひらした尾びれが美しい。そういえば、スコッチ先生は巨大なアロワナを5匹も飼っている。
 買ったばかりのAPPLE POWERBOOK PROのディスプレイを見つめる真一の眼は暗い。
 画面には人気急上昇ブログ「ハンカチ護送計画」のトップページが映っている。
 そこには、泥まみれのミッキーTシャツ姿で泣きながらパトカーに乗る真一の写真が公開されていた。ブログは真一を擁護していた。

「そもそも、下着交換は一部にとっては高貴な趣味である。数へのこだわり、美食、ゴシックへの傾倒、美少女趣味、Mさんの華麗な美的世界をどうして人々は理解しないのだろう。それはマイノリティに対する偏見であり、この格差社会を助長し、なおかつ、やがてはファシズムへの傾斜を助長する脅威を内包している。われわれは警察及びマスコミに対する抗議行動のひとつとして、彼を模したマスコットがプリントされたTシャツとは白ハンカチ、および白ブリーフを製作しました。これらの販売収益は・・・」

 ブチっ。

 真一はMacの電源を強制終了させた。
 やれやれだ。
 真一批判、真一嫌悪、真一崇拝・・・本人とかけ離れたところで、真一という偶像が独り歩きしている。世間は死んだ少女たちや飯田のことはもうどうでもいいかのようである。カーテンの隙間から眼下を見下ろすと、相変わらず週刊誌の記者やカメラマンが真一を張っている。

 真一はベッドに身を投げ出して、天井を仰いだ。

 あの一日がすべてを狂わせた。
 そもそも、何でこんな事態に陥ったのだ。
 誰かが自分を地獄に陥れようとしている。
「いや、考えすぎだ」と真一は思い直す。「スコッチ先生なら鼻で笑うところだ」。ともかく、事実を整理してみよう。
(1) 真一は少女売春の元締め・ユカを探していた。
(2) 飯田にユカの所在を聞き、代わりに下着とシャツとハンカチと名刺を渡した。
(3) 飯田にボルシチピロシキをおごった。
(4) 百合の花に囲まれた美少女2人の死体を見た。
(5) 階下に降りて警察に電話した。
(6) 現場に戻ると、飯田が真一の白いブリーフをはいて死んでいた。

 なにもかもごちゃごちゃだ。
 どこから解決していいか、真一にはさっぱり見当がつかなかった。
 むしろ、心配なのは自分の心の状態だった。衰弱がはげしい。
 食事は妹の奈緒が届けてくれる。母は真一を配慮してか、一日に一回だけ携帯にメールしてくる。
 真一はポケットから携帯を取り出し、今朝の母からのメールを見た。
「しんちゃん、すべては時間が解決してくれるのよ。じっとしていなさい。反論したり、戦おうとしては、ダメ。世間は、しんしゃんが思っているよりもっともっと無責任で残酷なところだから。しんちゃんには、母さんと奈緒がいるでしょ。だから、今は何もしないで。再就職先は国会議員の武内先生によ〜くおねがいしているからね。母さんを信じて」
 母さん、真一はうめいた。母さんに会いたい。母さんが作る、カニクリームコロッケで家族3人の食卓を囲みたい。奈緒仕入れてきたワインのグラスをくゆらせながら、宝塚や歌舞伎の話をしながら、ワイワイと楽しみたい。かつてのように。
 でも、と真一は思い直す。「ぼくは・・・」。
 ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、これから、母さんを悲しませることをするんだ。もう母さんのもとに戻れないんだ。母さん、しばらくさよならだね。
 真一は奈緒に頼んで買ってもらっておいた、黒い革のパンツに黒いタートルネックのシャツを着込み、ある場所に電話をかけた。