第1章 13段の階段 -1-


 港真一はテーブルの隅から20センチのところに置いた腕時計を見た。
 母から30歳の誕生日にもらったロレックスのエクスプローラーだ。
「あー、もう時間切れだ」
 取材相手が喫茶店に現れるまでに、あと10分しかない。
 その間に、テーブルの上の品々の配置を整えなければならない。
 時計の位置は決まった。残りは手帳、万年筆、ICレコーダー、名刺入れ、紅茶のポット。そして、一枚の写真・・・今回のもっとも重要な「取材のネタ」だ。
 すべては宇宙の軌道のように、あるいは、ポリーニショパンのように正確無比でなくてはならない。もっと、平たく言えば、すべてがテーブルに対して、直角かつ平行、そして均等でなくてはならない。「ミリ」にこだわる男でいたい、と真一はよく思う。
 すでに1時間が経過していた。
 額から汗がにじんできた。汗は真一にとって、不快極まりない生理物である。汗をかかない人生はどんなに素晴らしいかとも思う。ここで、せっかく緻密に折りたたんだハンカチを取り上げ、汗をぬぐうのがつらかった。毎朝、ハンカチと白いブリーフは、近所に住む母がピシッと糊づけして、アイロンをかけたものを届けてくれる。母が美しく仕上げてくれたハンカチを汚すのは、母への冒瀆だとも思えてきた。
 白シャツの第一ボタンを外したい。そして、妹の奈緒がバレンタインデーに買ってくれた、バーバリーのピンクのネクタイを緩めたかった。しかし、それは真一の美学は反した行為だった。
「あと3分」
 もはや、覚悟を決める時だ。パニックに陥ったら例の薬・ワイパックスを飲まなくてはならない。「飲むときは2錠一緒に飲め」とスコッチ先生に言われている。今週はあと、4錠しかない。まだ週の真ん中水曜日だ。ワイパックスをこれ以上、浪費するわけにはかない。
 ヤクザ風の男が入ってきた。
 真一はものすごい男立てて立ち上がった。そして向かいの席を勧めた。
 席の上には何も置かれていなかった。

「あんた、毎朝の記者さん?」
 男は怪訝な顔をした。
「あっ、はいっ。社会部記者・港真一と申します」
 はーん、という顔をして、男は真一の細身の身体を眼でなめた。
「飯田さん、です、よね」
「おお、いかにも」
 パンチパーマの飯田は、真一を見て、明らかに安堵したようだ。
 パンチパーマなど、見たことのない真一は、安手のヅラなのかと逆に訝った。
 そしてついに、さきほどひっこめた白ハンカチを取り出し、額をぬぐった。
「あんた、こういう事件の記者さんには見えないな」
「はいっ。わたくし、4月から人事異動で婦人家庭部から転属になりました」
「そりゃ、風俗関係か。いい店紹介しろよ」
「いえっ。料理担当であります」
 真一は胸を張って言った。
 真一は「美味しんぼ」に憧れ、新聞社に入り、見事、婦人家庭面でグルメ記事担当の記者になった。政治部や経済部への配属を求める同期を尻目に、真一はその病的とも言える卓越した「舌」感覚で、鋭い記事を書き続けてきた。
 しかし、そんな夢のような日々も30歳を境に終わった。大事にしてくれていた女性上司(彼女は真一の白ハンカチを愛して、彼を「ホワイティ」と呼んでいた)が地方支局に異動になり、新しく整理部から異動してきたイノシシのような上司は、当然、真一を嫌った。
「あの表六玉(死語)をとっとと、叩き出せ」と息巻いて、この4月イノシシは思いを遂げた。
「まあ、なんでもいいや。とにかく、おれをここに呼び出すということは、おまえ、どういうことかわかってんのか」
 飯田は突然、息巻いた。額に深いしわが入り、闇の部分をあらわにした。
「えええっ。そんな、僕はただ、上司に言われてえっ・・・まだ2日目なんですぅ」
真一はコオロギのような声で言った。
飯田はそれを見てあきれたが、ふと何かを思いつき、笑福亭鶴瓶のようなうすら笑いを浮かべて言った。
「おおそうか。そりゃ大変だ。んじぁあ、うまい店にでも連れて行ってくれ。そこであんたが見せたいといっていた写真を見るよ」
 と言って、伝表をつかんでレジへ向かった。
「フゥッー」とガッキーのマネをした真一は両手でパックを抱え、上村の後を追った。
 (-2-に続く)