第1章 13段の階段 -2-

「なんだよ〜。おでんにカレーパンか」
 飯田は落胆していた。新宿三丁目の小さなレストラン。いかにも通好みの店だ。
「違いますよ。ボルシチピロシキですよ。ここは新宿のロシア料理店ではいちばんの美味、です」
 真一は膝の上にハンカチを敷きながら言った。
 この店を日曜版で紹介したときは、問い合わせが殺到した。真一が見いだした店と言ってもいい。
「普通、接待と言えば、焼き肉かなんかだろう」
 飯田はあくまでも不満だ。
「ま、食べてみてください」
 飯田は怪訝な顔をして、スプーンでスープをすすった。額にしわを寄せて、目を閉じ、口の中をもぞもぞさせた。
「あー、これ、ばーちゃんの味だ」
 ふふん、と真一は得意げな顔を見せた。
「そうなんです。ここの店主はウラジオストックの出身で、やはりこの料理をおばあちゃんから教わったらしいです。とても寒い場所です。そして貧しい。多くのレストランでもトイレに便座もないような、荒廃した街です。街並は美しいですが、ロシアの現状は過酷です。昨年、旅をして回りましたが。そこの味を彷彿させます」
 うん、うん、と飯田もうなづいた。
「おれは北関東の出身だが、一族は樺太からの引き上げ組だ。ばあちゃんは、現地の人間にこのみそ汁を習ったらしい。ああ、なつかしいな。おれの実家からは赤城山が見えたが、冬の空っ風を浴びると、ばあちゃんは樺太に帰りたいと嘆いていったけ」
 飯田の目に涙がにじんだ。「北関東では何もいいことがなかったよ」
 飯田は、自分の涙に気づき、はっと我に返った。そして、いつもの凶悪な顔に戻った。
「おい、ところで、おれは時間がねえんだよ。早く、あんたが言っていた、写真を見せろよ」
「あ、ごめんなさい」
 虚をつかれた形で、真一は鞄の中をごそごそと探した。なかなか見つからない。焦ると、真一はパニックになる。
「早く、しろ」
「すいません、これです」
 その写真には、少女がひとり写っている。
 背後は繁華街。深夜だろう。少女は女子高生ぐらい。茶髪、美形、黒いパーカーに、ショートパンツ。見ようによっては、モーニング娘。の誰かのようにも見える。
「あー、こいつがどうしたんだ」
「ご存知ですか」
「まあな」
「ぼく、今、少女売春のルポをやっているんです。社会部の初仕事。まあ、初仕事というのは、殺人とか凶悪事件でなく、往々にして・・・」
 飯田はしばらく神妙な顔で写真を見つめていた。そして、重々しい声で言った。
「どこにいるか知りたいのか」
「はい、どこを張っていればよろしいでしょうか」
「あんたには、向いていない仕事だな」
「それは当然ですよ」
 真一はハンカチで口元を丁寧に拭きながら言った。
「いや、冗談でなく、命を落とすぞ」
 ドスの利いた声だった。
「はっはっは、いや、まさか。ただ、コメントをもらうだけですよぉ」
 うろたえながら、真一は言った。
「いくら出す」
「はっ?」
「おれに、いくら出すんだ」
 飯田は口元に皮肉な笑いを浮かべた。
「お金は、だせません。そのかわり、このボルシチは・・・」
「ふざけんなよ。金を出せ。おれにもリスクがある」
 飯田は真顔になっていた。
「お知り合いですか」
「いや、もうおれのシマとは関係ねえ」
「この女の子は、この界隈の少女売春の元締めと聞いていますが」
 飯田はそれには答えなかった。
「金は出せないのか」
 今度は真一が真顔になる番だった。
「すいません。社からはでないし、僕も定期預金は崩したくないんです」
 ふん、飯田は笑った。
 セブンスターに火をつけ、思い切り肺に煙を送り込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「じゃ、服を置いて行け」
「はっ!?」
「あんた、服を置いて行け」
「私の服ですか? なぜ?」
「下着はどんなだ?」
「私は白いブリーフしか身につけませんが・・・」
「なお、いい。下着とその白シャツ、白ハンカチ」
 飯田は照れくさそうに言った。
「ど、ど、ど、どうするんですか」
 真一は慌てるとどもる。
「売るんだよ。ま、警官やパイロットほど、高くは売れないが・・・名刺ももう一枚、置いて行け」
「しかし、これらは母と妹からもらった大事なものであり、しかも、これを脱いだら取材を続けられません」
 真一は真面目に返答した。
「おれのを持って行け」
 飯田はそういうと、テーブルの下にある、マディソン・スクエア・ガーデンのバックを靴の先で、トントンと突いた。飯田はそのバックを初見だったが、わりとかっこいいと思った。「バックごと持って行っていいよ。おれは紙袋も持っているから」
 覚悟を決めなくてはならない。シャツならまた買えばいい。何よりもネタを取って来られずに、会社で物笑いの種になるのはつらかった。
 真一はバックを持ってトイレに向かった。